カンタータ 修猷賛歌

〜はるかなる時間の輝きのために〜


この賛歌は修猷館創立200年を記念して創作され、1985(昭和60)年5月30日の創立記念日に福岡サンパレスで演奏されたものである。レコードジャケットの題字は、当時の第20代館長である原岡鐵二先生が筆を揮われている。


SIDE‐l  第1部 東雲
      第2部 誕生

SIDE‐2 第3部 苦悩
           第4部 新生
           第5部 祭典

作詩:山本哲也
作仙:肥後一郎

ソプラノ:丸山祥子
テノール:大野徹也
アルト:小野山幸夏
バリトン:宮原昭吾

指揮:荒谷俊治
管弦楽:九州交響楽団
バンダ:西部吹奏楽連盟福岡支部有志

合唱指揮:栗田哲海・三浦宣明

合唱:修猷館200年記念合唱団
RKB毎日女性合唱団
九大コール・アカデミー
九大混声合唱団
コール・ラ・ピチーナ
コール・リラ
修猷館高校合唱部OB会
修猷館高校通信制OBコーラス有志
西南学院大学フラウェンコール
中村学園大学・短期大学クリスタルハーモニー
ハニー・エコーズ
福岡室内合唱団
福岡女子短期大学エンドレス・コール

Producer:Hiroshi lsaka
Recording Engineer:Yasuhisa Takashima
Date 30 May,1985
Location:Fukuoka SunPalace

Manufactured by CAMRATA TOKYO, JAPAN


作詩にあたって    山本哲也

はるかなる時間の輝きのために--。副題をこう名付けたとき、カンタータの「主役」は決定した。
時間という旅人である。いや、二百年という長い時間をつらぬいてきた、無形の、けれども確固とした魂のかたち。それをうたおうと思った。ひとは、それを修猷精神と名付けたのだろう。
マーラーの「さすらう若人の歌」やべートヴェンの「第9」の第四楽章のイメージ。打ち合せの時に話に出たこの二つが、作詩にどう影をおとしたか、わからない。作曲の肥後さんは、いわゆる万歳音楽にはしたくないと言われた。わたしは、讃歌の類型は避けようと思った。したがって、美辞麗句のきまり文句を排し、山水のアナロージを避け、詳句のなかで学校名をくりかえさない。これらが作詩の前提だった。

しののめの空に
ひとすじの光がうまれる

天明四年、筑前黒田藩の藩校「東学問稽古所」として発足したのが、修猷館の創立であるのだから、はじめのことばは 「しののめ」(東雲)以外になかった。それに、カンタータ一の最後は、館歌の「西のみそら……」でしめくくられるのである。修猷館二百年の歴史の黎明。しののめの空にうまれた一筋の光が、すこしずつすこしずつおおきな光の束になり、やがてそれが未知のまぶしさへとひきつがれていく。舌足らずな表現だが、全体の構想はそのようなものだっ修猷館に関する何冊もの書物、多くの資料に目を通した。だが、歌のことばはそれらを捨てるところからしかはじまらない。なぜなら、歌は、語りではないのだから。
もっと極端にいえば、歌は、本質としてことばを要求しないものであった。もしそうであるならば、中原中也の詩の一節ではないが、「ただもうラアラア唱ってゆく」しかないのである。
ことばが、意味を捨て、語りを捨てて、ただもうラアラアうたっていくとき、おそらく歌は、メロディという時間の流れのなかで生き生きしてくるだろう。
詩を書きつつあるとき、あるいは資料をひろげ、一行の詩句を模索しているとき、ふいに「音楽」が鳴りはじめるときがある。
「東雲」には「東雲」の、「六光星」には「六光星」の「音楽」が、詩を書いているわたしの胸のうちで鳴っていた。八篇の詩それぞれに「音楽」は鳴り、この、「音楽」としかいいようのないもの、それに衝きうごかされるようにして、ことばはうまれた。
作曲家肥後一郎氏は、わたしの胸のうちに鳴った「音楽」を、時になぞるように、時におおきく裏切るように、みごとな曲を書いてくださった。


楽曲解説   肥後一郎


第一部 東雲

黒い音群の静かなざわめきの底から湧き上るコントラファゴットとコントラバスのうねりが学び舎の曙を暗示します。オーケストラは次第に音域を広め明るさを加えながら学び舎の夜明前を浮彫りにします。バリトン独唱と合唱が学び舎誕生の萌を歌います。楽油中のほとんどのモチーフ、テーマがこの第一部で提示されます。


第二部 誕生
ワーリャックの鐘の静かな響が誕生の喜びを告げます。ソプラノ、テノールの短い独唱の後、修猷のモチーフが示され、「践修厥猷」の言葉がフーガ型式で展開されます。

六光星
校章六光星を胸に、学び舎に集う若者達の誇らかな姿が男声合唱で歌われます。

隆盛
ワーリャックの鐘は鳴り続いています。四人の独唱者と合唱によって学びの道を行く若者達の歓びが歌われます。合唱の不吉な中断で宙吊りの雰囲気となり、第三部に入ります。


第三部 苦悩
緊張感に満ちた速い楽句を背景に合唱が若者の苦しみを歌い始めます。四人の独唱者によって次々と哲学的な疑問が投げかけられます。合唱のパルランド・ルバート(語りかけるような自由な歌い方)で若者の決意が静かに歌われ、四人の独唱者が斬り込むように再び疑問を繰り返します。安易な回答をきっぱりと拒否し、学ぶ者の自立を宣言する合唱のかたまりの後、「なんじゃやもんじゃ」の不気味な呪文が始まります。

なんじゃもんじゃ
校庭の隅に二本木--なんじゃもんじゃの木が立っている、という乾いた即物的な風光がみるみるうちに暗い陰画に変り呪文を背景にして独唱者が禍禍しい受難のひとつひとつを告発するように歌います。学び舎が体験した具体的な歴史には触れていませんが、学び舎に集う若者が、そして我国が、我民族が体験した最もいまわしい大きな不幸を絶叫するように歌い、背景の呪文が粉々に砕け散ると同時に、二本木の乾いた風光がフラッシュバックされ、音楽は未解決のままティンパニーのやや晦渋な独奏に引き継がれます。


第四部 新生
ティンパニーの独奏に導かれて打楽器群がひとしきり喧噪を奏でると、オーケストラと合唱のオスティナート(執拗な繰り返し)に乗って四人の独唱者が新生の息吹きを歌います。

賛歌
トランペット独奏により第一部、第二部で提示された旋律が回想されると、合唱はオスティナートから離れて讃歌を歌い始めます。二群のファンファーレが参加し、全演奏者によって学び舎のはれやかな誇りが謳いあげられます。


第五部 祭典
ワーリャックの鐘が祭典の開始が近いことを告げ、独唱と合唱により修猷の宣誓、ファンファーレを経て、館歌と応援歌による音と言葉の祭典が繰り広げられ、広々とした渦巻きの中に曲は閉じられます。


修猷讃歌  作詞:山本哲也

第一部 東雲 しののめ

天明四年(一七八四)筑前黒田藩の藩校として 「東学問稽古所・修猷館」が発足。


しののめの空に
ひとすじの光がうまれる。
あ、あ、あ
世界のくちびるから
はじめてのことばがこぼれた。
おまえは まだ名をもたぬ旅人。
やわらかな翼もなく
櫂もなく、
おお 指先からしたたる水の輝き。
もっているのは
胸板のおくの夢の種子(たね)だけ。
 はるかな、
 はるかな、
 くろぐろとした豊饒の土よ
 未知の岸辺をあらう波よ。
 どのような知恵が
 われらを そこに運ぶのか。
 どのような意志が
 われらを そこに連れていくのか。
いま、
光のかたちになろうとする精神(こころ)。
しののめの空にうまれた光をあつめ
ここからはじまる
おまえは まだ名を持たぬ旅人。



第二部 誕生

明治十八年(一八八五)福岡県令により県立修猷館となる。修猷の名は藩校時代より継承、尚書「微子 之命」の「践修厥猷」による。

あたらしい学び舎に
鐘がひびき
ひらかれた書物の上に
鐘はひびき。
石と石
こすり合わせ
火をおこすように
ソノ猷(みち)ヲフミ修メ
ソノ猷(みち)ヲフミ修メ。
あかあかと
火をかかげ
額(ひたい)をあつめ
ひとつの答が
もうひとつの あらたな
問いを生むように
ソノ猷ヲフミ修メ
ソノ猷ヲフミ修メ
 日は まっすぐに昇る。
 道は まっすぐに続く。
日の高さ
知恵の高さに
さえざえと
まなざしをあげ。


六光星
明治二八年(一八九五)六光星の徽章制定。修猷の象徴として現在まで受け継がれている。

夢はめぐり時は移る。
ここに来て ここに学び ここを去る。
されど 頭上には
つねにかわらぬ六光星。
 闇のちからに
 星がかがやくように、
 現在(いま)という時間に光はみちる。
 そこに
 ふかぶかとした歴史を隠して。
若者よ、
ここに来て ここに学び ここを去れ。
胸に六光星、
誇らかにあれ


隆盛
明治三三年(一九〇○)大名町より西新の新校舎に移転。 ロシア軍艦ワリヤーク号の鐘は、寄宿舎の明け暮れを告げ、その後校内の始業合図の鐘となる。

ある日 そこに
なりひびく鐘と
いっせいに立ちあがる歓びがあり
いま ここに
つよい筋肉(ちから)と
やわらかな精神(こころ)の高なりがある。
ある日 そこに
もりあがる雲と
クスドイゲの緑したたる二本木があり
いま ここに
夢の黒板と
未来にむかってひらかれた窓がある。
ああ 泡だち もあがり
のどもとまで溢れてくる 時間(とき)よ
われらをさらに運べ。


第三部 苦 悩

不覊独立、独立自由の情神。「修猷魂」の核心にあるものを、ひとはこう名付けた。

風よ
すぎていく時間(とき)にさからい、
ひとの世の苦しみをふき寄せる、風よ。
風のなかで ひとは
誰かに呼ばれたように立ちどまる。
 〈なぜ ひとは生き ひとは死ぬのか〉
 〈なぜ こころはこんなにも震えるのか〉
風よ 答えるな、
誰も答えるな。
まなざしのとどかない遠いところに
戦いがあり、
戦いで死んでいくひとがいる。
たましいの深い沈黙のなかに
ためらいがちな問いがあり、
ひとり戦っているひとがいる。
 〈なぜ ひとは島になれないのか〉
 〈なぜ 問いは 闇の深さをもってしまうのか)
風よ 答えるな、
誰も答えるな。
ああ あらゆる問いを
さかのぼり問いつめて、
おまえは
おまえ自身で探りあてなければならない。
--生きていくことのおののきを、
--学ぶことを知ることのはるけさを。
あらゆるものを否定する暗いちからを、
--あらゆるものをほめ讃える歓びを。
おまえは自分で探りあてなければならない。
ああ だから 答えるな、
風よ。



なんじゃもんじゃ

運動場西南の隅にあった二本木=なんじゃもんじゃの木は、戦中から戦後にかけて、修猷魂高揚の場、質朴剛健の象徴であり、鉄拳制裁受難の場、青春の友情のしるしであった。

木が立っている
 木が立っている
名前なんか知らない
 名前なんか知らない
木のもとに集まるわれら
 木のもとに集まるわれら
 (なんじゃもんじゃ なんじゃもんじゃ)

そこに立ちならぶ正義
そこに耐えている精神(こころ)
くいしばる口のなか
なまあたたかい血がひろがった
ああ
地の上でふるえているものは何?
うずくまり耐えているものは何?
 (なんじゃもんじゃ なんじゃもんじゃ)

木が立っている
木が立っている
耐えられぬ空腹がわれらをおそう時
狂ったように笑っているのは誰?
耐えられぬ痛みに叫ぼうとする時
声のなかで身をよじるのは誰?
 (なんじゃもんじゃ なんじゃもんじゃ)

ひとつの声が すべての声をよび
木の高さをのぼっていく
ひとつの叫びが すべての叫びをよび
木の高さをのぼっていく
ひとつの叫びが すべての叫びをよび
木の高さを越えていく
そして 音もなく木は裂けた
そして あかあかと町は燃えた
 (なんじゃもんじゃ なんじゃもんじゃ)

木が立っている
けれどそれは 見えない木
木が立っている
けれどそれは
われらの生(いのち)に名前を与えた
木が立っている
おおまっすぐに 木は立っている



第四部 新 生

昭和二〇年(一九四五)終戦、制度や価値感の転換のなかでも、変らず脈々と生きつづけたもの、それは修猷の名であり、修猷館魂であった。

崩れおちた空の奥に
すこしずつ
すこしずつ空があらわれ

 そうそうと 時間(とき)はめぐり
 そうそうと 鐘なりわたり--
 たちあがってくる
 まっすぐに
 時間(とき)のくらやみのなかから
 ああ
 火のようにはげしい精神

みちたりた時間(とき)の岸辺に
くりかえし
くりかえし歌はうたわれ

 そうそうと水はながれ
 そうそうと 空かけめぐり--
 のぼりつめていく
 どこまでも
 未知のまぶしさのなかへと
 ああ
 矢のようにするどい精神(こころ)


賛歌
昭和六〇年(一九八五)修猷館創立200周年。ここからさらに輝かしい未来がはじまる。

波が
もうひとつの波を生むように
あふれてくる、
あふれてくる時間(とき)の輝きのために

翼あれ
よるこびの歌。

たしかな時間(とき)
たしかな場所の、
ひらかれた窓
ひらかれた精神(こころ)のために、
若々しい燃焼がある
夢がある。
語りつぐ理想
語りつぐ学びの道の、
冬のきびしさのために、
はれやかな誇りがある
自由がある。

あけぼのの光をあつめ
おおきな海のように
あふれてくる、
あふれてくる時間(とき)の輝きのために
あらゆるものを
よろこびの色に染めあげよ。




第五部 祭 典

西のみそらに避ける
星のしるしよ永久(とことわ)に--
その猷(みち)をふみ修め
星の高さ
理想の高さに
まなざしをあげ
その猷(みち)をふみ修めていく
われら旅人

館歌
彼の群小
夫れ北筑
與望は重し


プロフィール


山本哲也(作詞)
1936年5月福岡に生る。1961年より詩作を始め、同人詩などに属さず、専門誌「現代詩手帖」に投稿。1962年の年度賞として、第3回現代詩手帖賞愛賞。1967年 第4回福岡県詩人賞を「夜の旅」で受賞。1972年 第3回福岡市文学賞を「連祷騒々」で受賞。
同人詩誌「砦」、専門誌「詩と思想」「現代詩手帖」「詩学」「ユリイカ」などの他、雑誌「新潮」「朝日ジャーナル」などに執筆、第一線で巾広い活躍をしている。
修猷館高校、福岡高校教諭を経て現在第一経済大学助教授。日本現代詩人会会員,福岡県詩人会幹事。

肥後一郎(作曲)
1940年東京生れ。早稲田大学政経学部入学。同大オーケストラに入団コントラバス奏者となる。1962年卒業、朝日生命に入社、1969年第38回音楽コンクール作曲部門に〈フルートと弦楽器による五重奏曲〉で2位入賞。その頃より松村禎三に師事。以後、ほぼ毎年1曲のベースで作品を作っている。
現在までの主要作品は〈弦楽四重奏曲〉(1972年)〈弦楽合奏のためのメディタッォーネ〉(1973年)〈ヴァイオリンと管弦楽のための協奏曲〉(1975年)母校早稲田大学創立100周年のための「祝典序曲」(1980年)最近では第10回民音現代作曲音楽祭の委嘱作〈交響曲〉(1984年)は大好評を博した。又、上記〈弦楽四重奏曲〉は1975年2月イザイエ弦楽四重奏団によってニューヨーク初演がおこなわれ、大きなセンセーションを巻き起した。

荒谷俊治(指揮)
旧制修猷館中学、福岡高等学校を経て、1955年九大法学部・文学部卒業。在学中から福岡合唱協会、九大フィルの指揮を行う。1958年東京放送合唱団を指揮して楽壇にデビュー、東京フィル、東響、日フィル、読売など各オーケストラの指揮を行う。1968〜1974年東フィル指揮者。1969〜1970年文化庁派遣在外芸術研修員としてアメリカ、ヨーロッパに留学。クリーブランド管弦楽団、ボリショイ劇場オーケストラ、ルクセンブルグ放送交響楽団などを指揮。1974〜1980年名古屋フィルハーモニー交響楽団常任指揮者とて名フィルを育成。殊に「名フィルと邦楽器の名手たち」シリーズは各地で好評を得た。居住地町田市では町田フィルハーモニー交響楽団の音楽監督兼常任指揮者として、アマチュアオーケストラの育成にも力を尽くしている。